「織物」は人を交差させて、
私たちの「街」になった。

「街と織物」ガイド 



八王子空襲の被害を免れ、
街に残った織物工場を巡る100年の物語


2021.12.03-26
毎週 金・土・日 開催
※現地でのイベントは終了いたしました
ご来場くださった皆さま、ありがとうございました!

「街と織物」インタビュー 




人が交差し、街が生まれる。
そんな人の物語を、この場所から。


YouTubeアカウント日本遺産「桑都物語」推進協議会公式チャンネルにて随時配信します。

「街と織物」音楽会 


織物工場を舞台に、
物語を締めくくる音楽会が開かれます。
その模様はバーチャルの世界に組み込まれ、
当W e b サイトにて配信予定です。

ある日時が止まり、長く静まりかえっていた空間。人が行き交い、機械が地面が揺れるほどに「ガシャンガシャン」と鳴り響いていた日々。喧噪、笑顔、悲しみ。人がすれ違い、生まれた物語たち。ひとつ、音が消え、またひとつ音が消える。空間に留まり、静まった数々の記憶の欠片たち。ひとつの音が揺れ、蘇るある日の時。音の力は、数々の記憶をいまへ、そして未来へ蘇らせていく。

  • 楽典(GAKUTEN)


  • ○米倉 楽(Key)
    ピアノを沢村繁に師事。ライブハウス・カフェ・教会・工場等でジャズや即興的オリジナルの演奏を行う他、朗読・ダンス・演劇・絵画との音楽を作曲・演奏。近年、八王子市の文化財団で担当部長として音楽祭や舞台をプロデュースしている。

    ○坂ノ下典正(Gt)
    ジャズ・ボサノヴァ・ポップス・即興などを多様に演奏する。映像・絵画・舞踏・朗読・料理など、異ジャンルとのコラボレーションを数多く行う。バンド”Echostics”では作・編曲を担当。多数のアート系イベントに参加している。
  • まん腹


  • 2013年に多摩美術大学にて結成された3人組バンド、まん腹。ボーカルのわぴこさんは多摩美のテキスタイル専攻卒業。
    2013年、多摩美術大学にて、ドラムレスの4人組のバンドとして結成。
    2014年、自主制作ミニアルバム『腹のむし』リリース。
    主に都内で演奏活動を行い、自主企画「満福御礼」を各時期に開催。
    2015年、3曲入りシングル「てがみをかくよ」リリース。
    2018年5月、1stアルバム『ゆうたうん』リリース
    2019年3月に発表した3曲入りEP「ゆうべの星」リリース
    2021年3月 2ndアルバム「都わすれ」リリース
  • \special/
    金廣真悟
    (グッドモーニングアメリカ/Asuralbert Ⅱ)



  • 1983年宮崎県出身。 中学に東京に引っ越してくるまでに日本各地を転校。

    英詞のエモコアバンド「for better, for worse」、 キャッチーな日本語ロックバンド「グッドモーニングアメリカ」、 漢気系ロックバンド「AsuralbertII 」の3バンドのGt./Vo. 作詞・作曲を務め、ソロではそれぞれのバンドどれとも違う独自の世界観を表現している。

「街と織物」VR展示会公開しました!


現実の世界で建物が解体された後、デジタルの世界に再現される「街と織物」の世界。実際のガイドツアーは、限られた時間の中の開催となると共に、コロナ禍での開催のため人数を制限した形を取らせて頂きました。「織物のまち」に残る「街と織物」の原風景を少しでも多くの方に体験して頂くために、建物の解体後も、この場所に足を運べるV R ( バーチャル・リアリティー) ギャラリーの制作を行いました。

もうひとつの桑都物語


【戦前~ 1950年】
父が組紐工場として開業、戦争が始まり、組紐関連の機械を国に供出。空き家になった工場に織機を入れて貸していた。一家は5男1女と妻の8人家族。

【黎明期 1951年】
息子たちは工場借り主に雇用され働いていたが、借り主が辞めることになり、父が社長と経理、そして息子たちが織布作業をする形で操業開始。息子たち2名と女工数名での始まりだった。

【繁盛期 1952年 ~ 1973年】
織機20 台稼働し、女工も10 数人雇用した。このほとんどが住み込みで、青森、相模湖、神奈川、山梨・都留方面から 来ていた。そのうちの1人の女工は16歳で1961年青森から上京し、39歳まで働いた。生産した織物は銘仙から始まり、ネクタイ、毛織物、マフラー・小物類 と変化。

【衰退期 1974年 ~ 2008年】
受注が徐々に落ち、第1次オイルショックの時には 雇用していた女工も 1 名のみになっていた。 ほとんどは長男夫婦 で稼働するようになる。2001 年に祖母が 96 歳で亡くなる。2005 年長男の妻が亡くなり、2008年に長男が亡くなったことで機屋として終わりを迎えた。

【廃業期 2009年~ 2022年】
終わってからも四男夫妻が家屋の手入れを続けてきた。2022年2月には区画整理に伴い、母屋と機場の解体が決まっている。

1914年 産業用動力の市内導入開始
1917年 八王子市市制施行
1920年 市川正作、力織機の製造をやめ、組紐機製造に
1921年 力織機の市内台数が5000台になる
1921年 婦人向けの着尺を開発
1924年 八王子市で初めてネクタイ地が製造される
1941年 小宮村(現在の中野上町、中野山王等)合併
1943年 戦力増強のため、鉄を2/3を供出
1945年 空襲により残存設備の半数をさらに焼失
1947年 戦災復興資金導入

1950年 石目織のネクタイが大ヒット
1951年 統制撤廃、マフラーが新商品として登場

1954年 繊維貿易舘落成
1955年 奄美大島から八王子の織物産業と商店街に集団就職
1956年 ネクタイ合繊分野に進出、生産全国の6割を占める
1956年 八王子市集団就職に加わる
1957年 紋ウールが登場し市場を席巻する
1958年 ウール着尺売上げ30億8578万円
1960年 「織物タワー」建設
1961年 関東三大十夜の1つだった「お十夜」最後の開催
1964年 男物製品復興の波に乗る、八王子繊維産業のピーク
1964年 東京オリンピックのネクタイ(選手団入場式用)を織る
1965年 全国一のウール産地となる
1970年 インテリア商品開発

1991年 高度化事業として「産地ビジョン」を策定
1994年 開発商品の大型展示会を青山で開催
1995年 「織物タワー」なくなる
1999年 組合創立100周年「八王子織物工業組合百年史」 発刊

2017年 八王子市制100周年
2020年 八王子市が東京都で初めて「日本遺産」に認定

1918年 第一次世界大戦が終戦
1923年 関東大震災発生
1931年 満州事変
1937年 日中戦争勃発
1941年 真珠湾攻撃により太平洋戦争勃発
1945年 第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦

1950年 朝鮮戦争
1951年 サンフランシスコ平和条約

1952年 主権回復、トカラ列島返還
1954年 集団就職が採用される
1958年 東京タワー完成
1964年 東海道新幹線開業、東京オリンピック開催
1973年 第一次オイルショック、変動相場制移行

1979年 第二次オイルショック
1989年 平成に改元
1991年 バブル経済崩壊
1995年 阪神・淡路大震災
2008年 リーマン・ショック、iPhoneの日本での発売

2011年 東日本大震災、福島第一原子力発電所事故
2014年 消費税改定(8%)、御嶽山噴火
2016年 熊本地震

ツギ子さんのインタビュー(抜粋)


この機屋さんで女工として働いていたツギ子さん。
今からちょうど6 0 年前の桜の頃、1 6 歳で青森県から八王子へ。
いつの間にか八王子がツギ子さんの居場所になっていました。

駅には八王子行きを止めにきた兄がきて最後まで反対されたけど、行くと決めたので…三沢の駅は雪が降ってて24時間かけて上野まできました。東京は恐ろしい所だと聞いていたからそこだけは気をつけようと思って。上野に着いたら、社長と職業安定所の人がいて、電車で八王子に一緒に向かいました。八王子に着いたら引き渡しが行われて、この機屋へ来ました。
1961年(昭和36年)の3月28日に同じ汽車に乗って来た人はまだ八王子にいるのかしら。会ってみたいな。

–何か大変なことはありましたか?
大変だったことはなくって、時間から時間まで働けば、自由な時間があることがすごく嬉しかった。仕事が終わったら夕食が出来ていて、ごはんがちゃんと食べられるだけでうれしかった。夕食の片付けが終わったらみんなと散歩に行ったり … 入社してから1 年後には仲良しの友達ができて、映画行くのも一緒。お揃いの服を買ったりしました。今でも電話で連絡とっていますよ。

–女工さんの暮らしはどんなものだったのですか?
掃除当番や炊事当番が決まっていて、それが終わったらみんなでどっかいこーって出かけたり、春先は卓球台が部屋の前にあって食事後にみんなでやったり、お嫁さんが華道の免許を持っていたので習ったりしてました。庭の花を使ってやっていたんですよ。私は洋裁学校に通っていました。浅川が今ほど整備されていなかったので、友達と靴を脱いで渡ったりしてました。近道だーって。部屋は8人、6人、4人の3部屋ありました。部屋では先輩の彼氏の話を聞いたり、青森から来ている人が多かったから訛っても平気だったし楽だった。10時が消灯なんだけど、10時過ぎておしゃべりしている時に社長がトイレで降りてきたら、電気をパッと消したりなんかしてね。でも、仕事さえちゃんとやってれば 怒られることはなかったですよね。

初めは本当に3年で帰ろうと思っていたんですよ。それが3年になり6年になり、いつの間にか帰る場所は青森ではなくて、八王子になっていました。やっぱり機から離れられなかったのかな。私、子供の頃母が手機で織って着物作ってくれたことがあるんですよ。それが今私はシャトルで代わりにやってるんだなあって。

やっぱり寂しいですよね、機で人生を終えたようなものですから。少しよくなったらまた織ってみたいなって思いますよね。機械のことは忘れたわけじゃないから。でもこうやって時代が変わっていくんだなあと思いました。

「街と織物」開催に寄せて 


織物と暮らしがあった時代の原風景に、自分はこの歳になって初めて出会いました。
畳の部屋から窓ガラスの先に広がる織機が並ぶ風景。
こんな風景が近代的な街並の中に、今も残っていたことに驚きを隠せませんでした。
そして出会えたその風景は、近いうちに取り壊しになることが決まっていました。

のこぎり屋根の織物工場を東に、西に住宅という構造、その建物の中に女工さん達の暮らしがあったこと。
庭に当時飛び交った蛍の光。八王子の駅から見えたという庭の木。
農地ばかりだった時代から建っていたその建物に残された数々の想い。
行き交う女工さん達と、そこで暮らした日々の記憶。

自分はこの街の染工場に生まれました。子供の頃そこには職人が行き交う風景がありました。
機屋で育った女性がこの場所に足を運んでくださり、そこにまるでみんながいるようだと語りました。
織物があった街の記憶。それは、この街に当たり前のようにあった風景の1つでした。
失われたはずの時代の風景が残る場所を、1ヶ月の間、その時代の物語と共にご案内出来ればと思います。


奥田染工場/つくるのいえ
奥田博伸

「街と織物」と共に


本イベントに共感してくれた仲間達から、
様々な展開が生まれていきます。

  • よみがえる
    「宗兵衛裸麦」を味わう




    明治から昭和中期まで、主食として欠かせなかった麦。川口村(現:八王子市川口町)で生まれた 「宗兵衛裸麦」はまさに八王子市の97%の産業が織物だった昭和10年、東京府の裸麦栽培面積の 42%のシェアを持つまでになっていました。一握りの残された種から、その麦を蘇らそうとしている 人たちがいます。時を越えて、失われたと思われていた味を味わって見ませんか。 ガイドに参加下さった方に希少な麦から作られたのこぎり屋根クッキーをもれなくプレゼント。

    HACHIOJI FARMER’S KITCHEN ふぁむ
  • 「水と産業を巡る」
    街歩き調査



    「街と織物」舞台である八王子の街(旧小宮村周辺)を歩きながら、過去どんな暮らしをしていた土地なのか、 なぜこの土地に急速に工場が増えたのか、豊富な湧水とその土地で育った糸にまつわる産業の関係、地形や歴史にまつわるプロフェッショナル達が集まり、その土地だからこそ持つ特性から、この街を紐解いていきます。この調査の模様は追ってご報告します。

  • 待望の
    新シリーズ始まる!?



    YouTuber
    肌着専門店「イツミヤ」
    中野 智行

    YouTube にて「八王子国の歩き方」というシリーズを制作している肌着屋の中野さん。飲食店へ訪れ、独自の物語と共に世界を描く手法で数多くのファンを持つ。そんな中野さんが「街と織物」に共感して、最新作を鋭意制作中らしい。いつ配信されるのか。中野さんのYouTube チャンネルを要チェック!!


    YouTubeチャンネルはこちら
  •  

イベントを通してご協力くださった方々



  • イラストレーター
    もんでんゆうこさん

  • 高尾駒木野庭園の皆さん

  • gardener
    石川メアリーさん

  • AL KREATIV
    新井浩さん

  • 地域と映像
    佐藤洋輔さん

  • 星槎国際高等学校
    Tech Raftの皆さん

  • 水墨画家
    齊藤栴朗さん

  • 八王子市郷土資料館の皆さん

and more..

空間音楽


ガイドツアー当日の工場内の空間に静かに響く音楽をセレクトして頂きました。


  • 「穏やかな音楽」をコンセプトとしたCDショップ。2019年5月に東京・八王子に移転。そのセレクションは、時代やジャンルを超えた発見と気分やシチュエーションに沿った音楽の様々な楽しみ方を提案している。
    http://ameto.biz
    店主/寺田俊彦

「街と織物」ガイドに向けて


八王子繊維産業の栄枯盛衰と共にあったこの建物。そこにどんな歴史があったのかを知る前は、街の風景の中の1つでしかありませんでした。お話を聞く中で、本当に引き込まれるような、たくさんのお話を聞くことが出来ました。この街にはきっとそうした機屋さんがたくさんあったのだと思います。家族で立ち上げ、遠くから「金の卵」と言われ集団就職で来た女の子たちが機屋さんに就職、みんなで寝食を共にし一生懸命働いた、1950年から1970年の織物に交差するたくさんの人々。八王子繊維産業の歴史を調べ、その変化の早さに驚きました。

戦前まで農業と並走して行われてきた織物が工業化して盛り上がってきたところに戦争が起こり、織機を「鉄」として持っていかれてしまいました。終戦後、大空襲で焼け野原となった地でまた産業を起こし、「ガチャマン期」を迎えるも、長くは続かず、第1次オイルショックの時には女工さんのほとんどがもう工場にはいなくなっていました。街のあちこちで織機の音がした時代から、今はもう9割以上の工場がなくなり、その音が聞こえることはなくなりました。それでも、目をこらすとそんな街の中には今も、織物が熱かった時代の痕跡が、生活の隅々に見え隠れしているように思うのです。

この街の織物の記憶が残る場所。詳しく当時のことを教えてくださるお二人のその言葉のひとつひとつから、当時の空気が蘇ります。それは機屋さんとしての工場の姿以上に、女工さんも含めた家族みんなの物語でした。織物を通して人と人が交差し、街になる。そんな八王子の姿。どうかこの場所が壊されてなくなってしまう前に、この街の織物がどんな場所から生み出されていたのか。織物と共にあった当時の暮らしがどんなものだったのか。この街にあった、たくさんの物語の中のひとつを、解体が決まった工場を巡りながらご案内出来たらと思います。

「街と織物」一同

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絹産業を基盤として発展し、”桑都”と称された八王子。桑都の物語は、戦国時代に関東を治めた北条氏の名将・北条氏照が八王子に居城を築いたことから始まり、霊山・高尾山への人々の祈りが、この地に育まれた豊かな文化を未来へ紡いでいく物語です。

【街と織物】
主催:日本遺産「桑都物語」推進協議会
企画運営:つくるのいえ