~ 思い出しちゃった ~






残念、工場の地図記号は「歯車」を表した左下が正解です。
しかし、なぜ「のこぎり屋根」は工場のマークとして、
これ程までに一般に定着しているのでしょうか?

工場としての背景

蛍光灯などの人工照明が普及する以前は、自然光を効率よく取り入れることは重要でした。
工場、特に細かい作業や繊細な色の変化を見極めるテキスタイル工場(布にまつわるものを生産する工場)
において、安定した明り取りができる「のこぎり屋根」のデザインは最適であり、産業革命とともに急速に広まりました。


OLN/井清織物 [群馬県桐生市] (2014)

織物工場 [岡山県倉敷市] (2017)

つい、見た目のユニークさに目が行ってしまうけれど、
「自然光の安定供給」を叶えるのがこの形だったんですね。

そうだね。 そして「のこぎり屋根」の建築様式は
明治の日本にも伝わることになります。

明治維新以降、急速な近代化を進めていた日本。
海外からの生産方法を取り入れ、効率よく大量生産が出来るようになっていきました。
そういった産業革命の余波は、生産をつかさどる工場の建築様式にも影響が及び、
「のこぎり屋根」が明治から昭和初期にかけて多く建設されました。
その第一人者となったのは、山辺丈夫と言われています。

山辺 丈夫(やまのべ たけお)
[1851-1920]
実業家、紡績技師。 東洋紡績会社(現在の東洋紡)の初代社長。
26才でイギリスに渡り、保険業を学んでいたが渋沢栄一からの手紙で
機械工学に転じ、帰国後日本で最初の組織的紡績工場となる大阪紡績株式会社(現:東洋紡)を設立。

1882年の大阪紡績会社設立を皮切りに、段々と近代的設備をもった工場は増えていきます。
今まで手工業が主であった日本の産業は動力を導入するようになり、
それは明治の終わりから昭和前半にかけて一気に加速します。



この時代は繊維産業そのものの成長も著しく、企業数全体でみても成長産業であったことが伺えることから、
近代工場の象徴として「のこぎり屋根」工場は全国繊維産地の至る所に存在していたと推測できます。



下の画像は、昭和19年の八王子市を上空から撮影した写真です。【国土地理院ウェブサイトより引用(https://mapps.gsi.go.jp/)】
拡大してみると、のこぎり屋根の陰影を幾つも見つけることができ、この時代にのこぎりやね工場がいかに多かったかを伺え知れます。


そっか、沢山建てられたことで、
工場といえば「のこぎり屋根」ってイメージがうまれたのね。

そうだね!
けれどイメージはそのまま、今度は繊維関係の企業・工場が
どんどん少なくなっていくんだ。

繊維産業は、1950年代頃から約20年間続く「ガチャマン景気」と呼ばれる繁栄の時代を迎えます。
織物の機械をガチャンと動かせば万(マン)と儲かるといった、とても景気のいい時代で、
織物の会社を起こす人、繊維関係の仕事に就く人が大変多かったことは想像に難くありません。

今でも、ここ八王子や全国の繊維産地で当時現役であった年代の方からは、
「どこもかしこも機織の音がしていた」「のこぎり屋根があちこちにあった」というお話を伺えます。

しかし、それも時代の移り変わりとともに終わりを迎え、繊維関係の企業は急速に減少しました。
町中で機織りの音を聞くことも稀になった今、「のこぎり屋根」は無くなってしまったのでしょうか?