「つくるのいえ」とは

つくるのいえが目指すもの

“人がつながる、ものづくりの場”

  日本全国のものづくりが出会い、つながることで新たな視点が生まれる場所へ。日本の繊維やものづくりを、織物のまち八王子から、この場所から、もっと面白いものに。新しい時代の織物のまちへ。

TSUKURUNOIE IS

“an open platform for all creatives”

  TSUKURUNOIE is the hub for creatives in Hachioji: Tokyo west end. Hachioji used to be full of textile mills in times past, and you can still find old mills today. We renovated an old Japanese house just next to a mill, and opened here for manufacturers & designers to get inspired each other. From here in Hachioji, we believe that domestic textiles and other creative industry will develop further.

ものづくりは、中身を知るともっと楽しい。

“どんなものづくりにも、必ず人が関わっている”

  好きな人がつくるものを手元に置く生活がしたい。好きな物を作れる人に出会ってみたい。当たり前にものが溢れるなかで、誰かが作ったと言うことは感覚から失われてしまう。人が作り、人が使う。物が溢れる今だからこそ、そんなシンプルな感覚を取り戻したい。
作っていることには必ず魅力的な背景がある。それが少しだけ作られる物でも、大量生産される物でも。昔から作られている物でも、新しく生まれた物でも。

機械がものを作っていると思っていた。
同じ機械があれば同じ物が作れると思っていた。全国の工場を回ってわかったのは、機械が同じでも人が違えば作られる物は変わるという事実だった。物は、作り手たちを映し出している。ものづくりと出会う充実感と感動を味わって欲しい。

“手に取ったその布が、誰かが生み出しているんだという感覚を取り戻したい。”

GO BEHIND THE SCENES

“resist and look beyond consumerism”

In consumer society, many people keep buying, using and wasting stuff on a daily base. However, craft production still strongly attracts consumers with the craftsmanship – the mind of people behind the scenes. People with the true craftsmanship are making because they found fun in it, not simply because of consumer demand. We share the story of “behind the scenes” to tell that they are enjoying making it, and are hoping you to enjoy using it. Being aware of this fact will really enrich your life.

デザイン × 現場

“ものづくりのオープンな関係”

  ものづくりを継続する上で、この場所で出来ることは何なのか。デザインが生地や加工を引き出すだけではなく、現場からもデザインが生まれるように。新たな人とのつながりと対話によって、技術やアイデアが加速する場所。これから生み出されるデザインと、形をつくる現場にオープンな関係を。
未熟なデザインや自己満足で終わってしまうものづくりではなく、美しさや存在の整合性を生み出すことを達成できるものづくりの仕組みを。

DESIGN & MANUFACTURE

“open and honest communication”

We think that our role as a hub for both designers and manufacturers is opening their communication.
As designers bring out the best in textiles, artisans do bring ideas of design. The open and honest communication build a solid and lasting relationship in business, and that will expand the possibilities of new design, textiles and artwork.


 

「つくるのいえ」とは

 八王子大空襲の折に甚大な被害を受けた影響で、市街地には古い建物がほとんど存在しません。中野上町地域はその中でも被害が少なく、奥田染工場もつくるのいえの織物工場の家も八王子では貴重な戦前の建物になります。富岡製糸場と経営母体が同じだった製糸場の名残もあります。それは全国生産数1位だった工場でもあります。ほとんどがここ数十年の間に廃業や転業されてしまいましたが、貴重な技術が生まれた繊維技術が集積した地域でした。
 そしていまもその名残がわずかながら残る地域でもあります。町を歩くと、過去の活気のあった残像が薄れつつも、各所にいまだ残ります。その中で、繊維業の栄枯衰退が染みこんだ古民家に出会いました。誰も住まず放置されたその家と出会ったとき、自分がしたいと願っていたことと結びつきました。一歩踏み込んだ時、その誰もいない、光だけが差す、ぽっかりあいた空洞のような家に、なんだか呼び出されたような感覚に襲われました。宝物が眠る洞窟を探検するようなワクワクとした感覚とともに。

 
工場が消え、古い住宅地だけが残ろうとしていた地域に時を同じくしてたくさんの仲間が集まってきました。仲間が近くの建物に移ってきたり、移ってきていた、出会ったたくさんの人たちの力によって、その古民家は修復が進みました。生まれたときと同じ顔にまずは戻るように。

長い間誰も人がいなかった家、住めるとは思えなかった家に、10年ぶり、12月の寒空の下、活気とぬくもりが戻ってきたとき、この家の100年間で起きてきただろうことが走馬燈のように投影され、それは自分が育ってきた環境や自分が育つ前にあっただろうものづくりの風景に重なっていくようでした。

何もなかった家に笑顔の人が集まっている光景を眺めながら、手伝ってくれていた仲間のひとりが「寂しそうにしていた家がなんだかうれしそうにしている」と、呟きました。この家が建てられた100年前にこの場所にあっただろう希望への喜びに重なるものがその場にはあるように思えました。


 

八王子織物の歴史について


 

織物の街 八王子から
日本の布づくりの未来像

奥田博伸著 平成30年(2018)
特別企画展「地場”讃”業 ー伝統と革新の軌跡ー」
(帝国データバンク史料館)より

はじめに

 桑の都という美称を持つ八王子には、その玄関である八王子駅に大きなモニュメントがあった。江戸時代には甲州街道の宿場町であり、八王子十五宿の歴史の中で、横山宿と八日市宿で市が開かれ、多くの絹織物が取引されていた。人が行き交う場所であった八王子の優位性は、その流通の発達ともに急速な生産の高速化とコスト削減が求められる中、生産現場の大型化と共に地方や海外へと移っていくことで、織物の街から郊外型の住宅地へと移り変わっていった。

「織物の街八王子」シンボルタワー(昭和58年頃)昭和35年建設 平成11年まで
引用:平成12年(2000)「織物の街に生きる」(八王子市郷土資料館) 表紙写真

 

絹の道

 養蚕は農業に恵まれなかった山間地域で行われ、山を背にし河川がある地域に繊維産地は多い。密貿易を経て、1859年の横浜港開港と共に絹糸は海外への主要な輸出品として本格的な取引が始まり、八王子は養蚕地帯の中でも横浜に近く江戸にも近いという地理的条件により横浜に絹糸を運ぶ集積地となり、上州、信州、甲州などから大量の生糸が八王子に集まった。また、明治30年代政府統計の全国織物産地売上高においても、京都西陣、桐生に次いで、八王子が第3位の売り上げになる。

横浜市周辺外国人遊歩区域図(横浜開港資料館所蔵)慶応3年(1867)頃
引用:平成26年(2014)幕末の八王子-西洋との接触- (八王子市郷土資料館) 32頁

 

手織機から力織機へ

 イギリスでは紡績機の機械化により綿糸の生産効率化が進み、1785年に織機の動力化として、E・カートライトが開発したのがパワー・ルーム(力織機)であった。八王子においては、大正3年以降の市街地への電力供給や第一次大戦による好景気により、大正3年時点で291台の力織機、4493台の手織機は、大正9年には4681台の力織機、1593台の手織機へと力織機へと転換して行く。 八王子寺町の市川正作が製作する市川式力織機が高いシェアを得ていた。家内工業的な生産が主流で、農業の副業的側面が強かった織物生産は、山沿いの村での生産から、電力を利用した市街地での生産へと移り変わっていく。

手織の構造と部分名称 ハタアシ(八王子市郷土資料館所蔵)
引用:平成26年(2014) 八王子市史叢書2「聞き書き織物の技と生業」(八王子市)6頁

 

 

『実習風景』府立織染学校(現 東京都立八王子桑志高等学校)昭和18年卒業アルバム
引用:平成24年(2012)八王子の府立学校~織染・二商・第四高女~(八王子市郷土資料館)6頁

 

戦争と八王子空襲

 昭和10年、八王子の産業において織物業が占める比率は圧倒的で、工場数で八王子全体の97%(1372工場)、従業員及び生産額で95%を占めていた。
昭和16年、日本は太平洋戦争へと突入していく。昭和18年、繊維工業の軍需産業への転換が求められると共に、設備の屑化供出が行われる。微弱な業者を極力操業させ、戦力増強に寄与できる力のある工場が織機を廃し軍需工場等へと転向した。
昭和20年8月2日の八王子空襲により、市街地の90%が焦土となったことで、終戦時の織物工場数は178工場、織機台数は1832台まで減少した。昭和16年との対比でそれぞれ、約21%、16%まで減少している。

 

織物工場と染色工場分布図(昭和6年、八王子市教育会「八王子郷土資料」)
引用:平成12年(2000)「八王子織物工業組合百年史」(八王子織物工業組合) 321頁

 

昭和19年の八王子市航空写真 多くののこぎり屋根(織物工場)の陰影が見える
引用:国土地理院ウェブサイトより(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=748807&isDetail=true)

 

昭和20年10月の八王子市(斉藤五郎氏撮影)
引用:平成17年(2005)「八王子空襲」(八王子市郷土資料館) 表紙写真

 

戦後の繊維産業

戦後、復活は急速で、ガチャンと織れば万と儲かる「ガチャ万」時代が到来した。昭和30年代にはネクタイ地の生産の全国6割を占めた。
昭和30年代後半に入ると新規工業の進出や、ベッドタウン化に伴う都内への人材流出により人手不足となり甲州地域への出機が増え、昭和49年には出機の織機台数が八王子の登録織機台数を上回った。そうして、街中に響く機織りの音は途絶えていくこととなる。外注依存は技術や製品の流出を招き、自社生産を止め間に入って利益を取る方が効率が良いという自らのリスクを減らす構造は、長期的には独自で作れるという強みを捨てることでもあった。
40年代から50年代初めにかけて、政府は過剰設備廃棄事業を行った。需要に対する過剰設備を改善するため、当時すでにほぼ価値がなかった織機を買い上げた。昭和44年、出荷額にて電気機械器具製造業に追い抜かれ、八王子織物は基幹産業の地位を失っていくこととなる。
昭和45年の生産高のピークを経て、生産高は下降へと進む。

八王子織物産地の企業数

 

八王子織物業界 生産金額
資料:東京都の繊維工業 現状と問題点 昭和41年度~56年度 各年度号  東京都の繊維工業 現状と課題 昭和57年~平成12年 各年号 東京都立繊維試験工業試験場発行(現・東京都立産業技術研究センター)

 

東京都の繊維工業規模別企業数
※1糸染業のデータは、昭和55.56年染色業、昭和57年~浸染業と企業名が変わっている
※2整理仕上業データは、整理加工業と織物仕上組合のデータを足したもの。昭和57年のデータから、整理加工業のみの数値となっている。
資料:東京都の繊維工業 現状と問題点 昭和41年度~56年度 各年度号
東京都の繊維工業 現状と課題 昭和57年~平成12年 各年号
東京都立繊維試験工業試験場発行(現・東京都立産業技術研究センター)

現在の八王子

みやしんは、日本全国を見ても小規模ながら非常に有数な工場で有り、他にはない素晴らしいクオリティで独自の織物を展開していた。多くの企業に影響を与え、日本のファッションにおけるクリエイティブの基盤となっていた。
現在は文化学園により、文化・ファッションテキスタイル研究所となって織機と共に数多くのアーカイブを所蔵している。
周囲を見渡せば、ある時代や日本の基礎を作り、多くの影響を残した工場が数多く存在した地域である。都内から近くデザイナーとのものづくりを行う工場は現在も多い。

みやしん(現 文化・ファッションテキスタイル研究所所蔵)

 

あとがき

 自分の生まれた昭和54年はすでに八王子の繊維業界は毎年毎年厳しさを増していく時代で有り、日々、有力な工場や職人さん、技術者を失っていく時代でした。戦前に水を求め、東京の下町から八王子の川に挟まれ水に恵まれたこの八王子に移ってきた奥田染工場も、時代とともに技術を変え、加工品を変え、仕事先を変え、決して商売がうまかったわけではない中、今までこの仕事を続けてきました。止めなかったという判断が正しい判断であったかは分かりません。商売という視点ではおそらく間違ったものだったと思います。10人規模の捺染工場に生まれた自分の景色に映るのは、続けることさえ厳しさが増す中で、自分の代でやめると言いながら亡くなっていった父親の姿でした。自分が継ぐことで、残したいと願ったのは、技術ではなく、人が集まる場で有り、物作りを介して伝えたかった想いであり、子供の頃見た職人さん達がいる風景でした。

昭和40年代の 東京都の繊維工業 現状と問題点を開くと、職人が40代で高齢化していると有り、それはそのまま50歳になり60歳になり、そうして現代においてまさにそれらの技術が数年のうちにそのほとんどが失われる、今になりました。もう、危惧すべき未来の話ではなく、今なのです。全国に先立って、八王子ではもうすでに多くの技術が失われました。失われ行く技術は、戦後の急速な人の暮らしの変化を考えれば当たり前のことです。技術は人に必要とされ生まれ、続けられない日が来て消えていきます。
移り変わることも、留まることもそれらは人が生きる価値そのものなのです。

なぜ八王子の街が織物の街になって行ったのか、そこから今に至るまでの経緯を紐解いていくと、土地の持っている特性や産業として求められることの背景が見えてきます。歩いてきた道を振り返るとき、八王子産地としてのこれから進むべき道が、ものづくりへの関わり方が、明確に見えて来ると考えています。